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第3回 教育の質保証・質向上オンラインセミナー 広島大学 村澤先生 ご講演

2021年2月19日(金)に実施された第3回「教育の質保証・質向上オンラインセミナー ~Afterコロナを見据えて今大学ができること~」で広島大学の村澤 昌崇先生にご講演いただいた内容をまとめております。

最下部に動画もご用意しておりますのであわせてご覧ください。

Afterコロナを見据えて今からでも大学が取り組むことができるIRのこと

高等教育の立ち位置の変遷

IRのことに触れる前に高等教育が置かれている現状について整理してみたいと思います。

この30年ほどで、高等教育の立ち位置というのはかなり変遷してきていると感じています。
大学は当初、学齢期人口の10%未満が進学するに過ぎない場所であり、「孤高」とか「村外れの変人」のような存在であったのです。ところが、大学から紡ぎ出される様々な知識が社会にとって有益なものと捉えられるようになり、この40〜50年の間に、大学が生み出す科学的な知見により「社会を牽引する」役割を担ってきていました。ところが、残念ながら現在ではこの高等教育機関・大学の位置づけが「社会の奴隷」と化しているところがある、と感じています。

その背景には、根拠なく矢継ぎ早に大学に降り注ぐ「改革」というキーワードにあると思います。このセミナーのテーマでもある質保証もそうですし、FD、SD、アクティブラーニング、ルーブリック、IR等々です。少々辛口の意見になりますが、これらキーワードは、大学の外部から持ち込まれたり、一部の高等教育研究者と自称する人達(私もその一人・・・)によって旗振りされたりしています。場合によってはこれらのキーワードが、振りかざす人の売名行為や利益誘導につながっていることも少なからずあります。大学はこうした「誇大ターム」に振り回されて疲弊しているのではないか。私自身も無関係ではいられないので、皆さんと一緒に一度立ち止まって考え、内省する必要があるのではないかと考えています。

こうした連綿と続く効果があるのかどうか不確かな、検証もされないままやらされる「改革」が進められた結果、高等教育の中/外で分断や格差、葛藤があちらこちらで起きているように思います。例えば中央と地方、研究大学と非研究大学、ガバナンス改革に伴う学長と教授会との軋轢、偏差値ランキングに基づく上下巻格差、文系と理系の格差、グローバル教育推進の裏で、国内研究が低く見られるような、国際と国内の軋轢、そして伝統的な事務職員と教員の軋轢・葛藤などもあります。これらの課題のクリアは古くて新しい、永遠の課題とも言えるものです。

IRの論点を整理する

では、私がお題をいただいた「IR」は、今の日本の高等教育において、どれほど必然性があるものなのでしょうか。よくよく考えてみると実は怪しいところがあります。まるで天からの授かりものか、舶来品・黒船のように外から降ってきて有り難がられている、という印象があります。場合によっては「アメリカでは」「イギリスでは」のように言われ(こうした物言いで権威付けを行うことを、一部関係者では「出羽守」(「では」のかみ)と称しています)、半ば強引に移入されたように感じるものがあります。

このように、押し付けられた感のあるIRですが、アメリカにおけるIRには必然性があります。なぜアメリカの大学ではIRが必然なのでしょう。その一因は、アメリカでは大学の自主自立が求められ、政府の介入を極力嫌う点にあります。結果的に市場で生き残るという行動に向かうことが当たり前となり、経営分析が当然のごとく求められるわけです。例えば、アメリカの大学には「定員」がありませんから、経営と教育の質を両立するためには、入退学者の飽くなき調整が必要であり、その結果として、均衡解を求めるための経営分析が欠かせないものとなり、IRが必須になるのです。

ところが日本の大学はまるで違います。日本の大学は、政府統制が強いので私立大学も含めて政府の方針に従属していれば良かったのです。ところが1990年代からは、新自由主義経済学に影響を受けたニューパブリックマネジメントが導入され、大学にも自助努力や自己責任が強要されています。1990年代以降の文脈では、たしかに日本の大学にも経営に資する有益な情報収集と分析が必要=IRが必要だと言えるでしょう。ただし日本固有の「定員」管理があるゆえに、日本の大学の経営は定員充足のための入試戦略に比重がある点は、アメリカとは異なります。また、政府の統制は形を変えて存在しており、たとえば競争的資金の配分を通じて様々な条件を各大学に要請している方式などです。私立大学等総合改革事業などはその典型例です。そうすると、たとえIRが必要だとしても、輸入物のIRに何ら価値はない、と思われます。

そして、実際の現場ではどのような状況が生じているかというと、「IRは必要」「国が言っているから」と導入を主張するIR信奉派と、「現場への理解がない」「本当に必要なのか」「国や御用学者の言いなりではないか」と導入に疑問を呈するIR嫌悪派という分断が起きてしまっています。

もちろん、IRにはそれなりに正当性を持つ部分もあります。EBPM(Evidence-Based Policy Making:根拠に基づいた政策形成)や、因果推論等のデータサイエンスのニーズなどから、国レベルで、エビデンスに基づく意思決定や物事の可視化が求められるようになっています。これらのアイディアの延長線上にIRを位置づけるのであれば、必然性と正当性を持ちうる可能性はあります。

一方で「IRerの専門職化」「IRの権限強化」のように極論が主張されますと、現況において大学の中で強化されているトップダウンのガバナンスと結びついて、暴走するのではないかと不安を感じることがあります。また、職場経験から身につく「暗黙知」「経験値」、そして個々の専門性に対する多様性などが、IRのエビデンス主義によって蔑ろにされかねないようにも感じています。

このように、IRは賛否両論があるということを認識いただければと思います。

コロナとIR -with コロナ afterコロナ

では、コロナ禍において、我々はIRをどう受け止めて行くべきしょうか。
コロナ禍において重要なのは、迅速な状況判断と、情報収集・分析だと私は考えます。この中で、情報収集・分析がIRに相当すると思いますが、それらを踏まえた意思決定をすることが一番大切だと私は考えます。

コロナ禍における大学の行動を観察して感じるのは、IRよりも、適切かつ迅速な状況判断や意思決定、対応するべきことの優先順位付け、つまりガバナンスの重要性が問われているのだと思います。例えば、コロナ禍において、教育関係者にとって大切なのは、子どもたちや学生などの命であるはずなのに、なぜか9月入学を議論するような本末転倒なことが起こってしまっています。本来であれば、コロナ禍によって現場ではさまざまなトラブルが起きているのですから、そちらを先に解決しなければいけないのにも関わらず、です。このような、政府のリアリティの欠けた対応は、まるで「事件は会議室で起きてるんじゃ無い、現場で起きているんだ!」と叫びたくなるような、“あの”ドラマが再現されているかのようでしたね(笑・怒)。
これは、近年のトップダウン型への移行を進めたガバナンス改革の失敗が、コロナ禍対応を通じて如実に現れたと言っても過言ではないでしょう。つまりトップダウン型ではコロナのような危機やリスクに対応できないということです。このようなことはいろいろな現場で散見されました。そうなると、IRを機能させるためのガバナンスが重要になってきます。

では、コロナ禍においてIRは重要ではないのでしょうか。そんな事はありません。コロナを境として、大きな変化が大学にも明確に存在し得ているのです。ですから、地道に多様なデータを得て、コロナ禍前後の比較をすることにより、コロナ禍対応の検証を行うこと−これがコロナ禍におけるIRの使命だと思われます。

このような対応は何のために行うのかと言いますと、将来のリスクやクライシスに備えるための糧とするためです。ただし気をつけなくてはいけないのが、IRに過度な期待を持ってはいけない、という点です。IRは一定数以上のデータが揃わないと、頑健性の高い知見を得ることができませんし、結果を得るためにも時間がかかります。そしてそもそも分析・検証は後手に回らざるを得ません。そういう意味では、即効性のある回答・解答を拙速にIRに求めることは慎むべきでしょう。しかし、適切かつ迅速な意思決定を促すような情報の収集は常に行うべきであると思います。そういう意味では、IRはやはり必要です。ただし注意すべきは、IRで集めるべきデータは、客観的・数値化されたデータである必要はなく、あくまで必要なのは情報の確度の高さ、そして複眼的にさまざまなデータをとって、折り重なる共通の部分が頑健性の高い情報である、と言う点です。

そうなると、大学にかかわる全員が重要です。我々が普段から見聞きするもの、これまでの経験の蓄積そのものを蔵出しすることによって、これが即IRとして実は生きていく。ここを否定されては、IRは動いていかないというのが、私の持論です。

飯吉先生インタビュー

飯吉:学生の学修データや成績データは、患者のカルテのように言われることが多いと思います。医療はマイナスを健常な状態に戻すということですが、教育は学生をそれぞれどこまで伸ばせるかというプラスの取り組みという違いがあると思います。ともすると、政策的には、3ポリシーに対して、IRが足りない部分を指摘するような使われ方していることが多くあります。そこでプラスにしていく仕掛けとしてIRの活用事例や先生のお考えがあればお聞かせください。

村澤:飯吉先生がおっしゃっていた医療との比較はとても重要だと感じています。EBPMのことをお話しましたが、それと関連付けると、EBPMはもともとEBM(Evidence-Based Medicine:エビデンスに基づく医療)の派生形として、そのフレームワークを政策にも応用しようという発想であり、さまざまな分析を行うときに、医学・医療現場で用いられている分析のフレームワークを用いようしたのが始まりです。この考え方が、初等・中等教育の場で浸透しつつあることは確かだと思います。

ただ、先生もおっしゃるとおり、医療のEBMは「病気を治す」という明確な目標が共有されているのに対して、教育現場では「病気」のような仮想敵や目標が、関わる人達の間で共有できているわけではない、という問題があるように思います。特に高等教育では専門分野があって、初等・中等教育の教科科目より細分化され、さらには最先端の研究とリンクしています。この「研究」が関わっている点が高等教育と初等中等教育との決定的な違いであり、研究を通じて、今まで常識だったものが、刷新される可能性もあるわけです。Xを原因としてYを結果とする因果分析に置き換えてみますと、Y(医療だと病気とか健康など)に関する合意形成ができているわけではないのです。こうなると、何を以て「良い取り組み」なのかと断言することは非常に難しいと思います。

また、EBPMを教育界に普及させようとしている人は、RCT(ランダム化比較実験)を至上とした因果推論の分析の厳密性は極めている(言い換えれば、Xの処理)のですが、成果(Y)に関する適切な指標とは何なのか?という点について、ドメイン知識(専門分野のこれまでの経験や専門性に根ざした知識)を欠いていることが多いこともあります。ですからEBPM的なIRの導入は、慎重に行う必要があり、良い事例を示すのは難しいと感じています。

逆にこのような場を借りて皆さんの経験やご意見等を伺ってみたいと思う程です。

飯吉:村澤先生のお話で、大学の教職員すべてがIRに関わろう、IRerたろうとおっしゃっていましたが、どんな視点、感覚を持てばIRerに近づけるとお考えでしょうか。

村澤:参加者からの質問にも近いご質問があったので、関連付けられれば関連付けたいと思います。私に対してIRをどう定義していますかというご質問がありましたが、例えば教員であれば、自分の目の前の授業で、学生に対して、自分が教えたいことがどこまで伝わったか、理解されたか、定着したかということを常に確認・把握することは、IRというキーワードに関わらず、大学教員の使命として、やらなくてはいけないことだと考えます。IRという言葉を使うか使わないかに関わらず、これがまさにIRではないかと考えます。この情報の集積が機関全体としてどこまでできるか、共有できるかということになると思います。そういう意味ではIRの「I」の部分は機関全体でどこまで集計できるのか、ということがIRにとって重要ではないかと思います。そういう意味では、IRを行うのに、専門職が必要かと言われれば全く必要ないと考えますし、自分がやっている仕事に対して意味合いを考える、内省する瞬間から皆さんはIRerになっていると思います。逆にIRerが専門職化すればするほど、現場から離れ、リアリティのある情報がわからなくなっていくのではないかなと感じています。

飯吉:では、参加者の皆さんからのご質問にお答えいただきたいと思います。

IR推進室が立ち上げられ、これまで感や経験に頼っていたものがデータを伴ってはっきりするのはありがたい一方で、経験とエビデンスの相関性を点検しているだけでは進歩が無いと感じています。そのような状況からどうやって目的や目標、政策に落とし込んでいくかをお伺いできればと思います。

村澤:おっしゃるとおりだと思います。勘と経験だけで行われてきた政策に対する反省がIRというか、EBPMへの推進剤になっているでしょう。EBPMはエビデンスを重視する代わりに勘や経験を否定するものです。ところがこの勘と経験というものが拡大解釈され、本来は必要な、先行研究や研究成果に基づいた専門的な知見さえも、勘と経験にくくられてしまい排除される傾向があります。ですから、我々だけでなく、教育学の研究者の中でもその点を危惧している人は少なからずおります。そこで我々は、データともに、データに親和性のある専門家の研究蓄積に基づく感や経験に基づく主観などを絡めることで、IRやEBPMによる政策決定を機能させるものにするような、流れを作るべきではないかと考えており、これをEvidence-Informedという流れにしようという研究をしています。広島大の高等研究開発センターで研究会もやっていますので、関心のある方はぜひ顔を出していただければと思います。

飯吉:小さい大学で、専門家を置くのは難しく壁にぶつかっていますが、どのように体制や機能を整備していけばよろしいでしょうか。アドバイスいただけるとありがたいです。

村澤:小さい大学での問題は本当にいろいろな大学からお話を伺います。ヒト・モノ・金・時間を捻出することが難しいところでは、文部科学省が言っている専門家の設置というのは非常に難しいと思います。まさにそういう大学の声を拾い上げるために我々はIRよろず相談というのをやっています。これについての正解はありませんが、一つの対処療法というのは無いわけではありません。専門家を置くというのをIRの専任者を置くと考え、実際にはIRを専門としているいろいろな方々、例えば研究会やコンソーシアムなどと常にコンタクトを取りつつ、実働は大学の顧問やアドバイザリーボードなどにお願いするという形を取れば、対外的には専門家を置いたと説明がつくと思います。これは我々がよろず相談を通して模索してきた中での一つの解である、とお伝えしたいと思います。

飯吉:高等教育を学んでいる大学3年生の方からの質問です。IRは大学の経営やマネジメントなどマクロレベルの改革と関連が深いと思いますが、個々の授業改善など、ミクロレベルの改善に資することはあるのでしょうか。

村澤:これに関しては私自身の経験でしかお話できませんが、全学ですすめるIRのデータの取り方に依存すると思います。個々の授業に還元できないような全学レベルのIRというのもあると思います。例えば、学生数や教員数のように外形性の高いデータなどです。こういったデータは大学の機関集計でしか無いので、個々の授業に影響を与えるようなことはないと思います。しかし、教員や学生にアンケート調査したような結果、例えば授業の満足度などは個々のリアリティがありつつも、学校では機関集計を行いますが、これを学部間比較とか、教員間比較に使えば、授業への影響も十分考えられると思います。
全学的な施策でも、例えば留学政策を抜本的に改革するような場合は、施策前と後で比較し変化を見ることで、その結果を個々の授業に落とし込んでいくようなこともできるのではないかと思います。

飯吉:大学生き残りの時代にIRによる改革が重要だと思いますが、いかがでしょうか。その意味で、組織的な関与は必要でしょうか。

村澤:IRが個々の大学にとって必要であればそれは全く問題ないのですが、少なくない大学にとってIRとは、黒船のようにやってきて、親近性や必要性を感じていないにもかかわらず、IR部門を立ち上げ、専門家を置き、その専門家を講習や研修で登壇させよ!などと上から要求されると、「うちの大学にIRはどこまで必要なの?」ということになってしまいます。

結局は経営上の必然、要はアメリカの大学のように、生き残るための必然の行為として自分の大学や他の大学の情報をたくさん集めたり、在籍率、つまり在籍者が多すぎると教育の質は下がる一方で、減りすぎると経営に影響が出るので、在籍率を維持するためにテクニカルな分析を行ったりしているわけですが、日本でも経営の問題があるのであれば、IRに基づいて戦略を立てて改革を進めていくことは必然だと思います。

IRという言葉が降ってこなくても近しいことはやっているでしょうし、あとは経営層の勘ではなく、データに基づく経営をするためにIRを行うということは重要です。

逆に力説したいのは、IRが目的となっては意味がないということ。これは国際化、グローバル化でも似たような話が多いですが、国際化することが目的ではなく、国際化してどうなるか、ということが重要なのですが、逆に捉えている方が少なくありません。IRも似たようなことがいえますが、何のためにIRをやるのか、ということをしっかり決めて取り組むことが重要だと思います。

飯吉:村澤先生や同僚の先生は、学内でどのような活動をされているのでしょうか

村澤:私は高等研究開発センターで、高等教育の研究を行う傍ら、その知見を生かして広島大学のIRにも関わっています。例えば広島大学はスーパーグローバル助成事業にあたっていますので、海外事業について結果を求められているわけです。学生たちが留学して、その成果がどのように出たのかという分析に従事しています。理事・副学長のもと学内のあらゆるデータを集約し、そのデータを匿名性に配慮して分析、さまざまな角度から各種効果の測定を行っています。例えば留学前と後のTOEICスコアの比較や将来の就職につながったかと行ったアウトカムの分析などを行っています。

ただ、分析をしていると、実際の取り組みに対し、成果が出なかった施策もわかってくるわけですが、その結果を出すと経営層はあまりいい顔をしません。つまりデータ分析を厳密にやって効果測定を行うと、極論を言うと、場合によっては大学を閉めたほうがいいのではないかという結果が出てくる可能性もあり、そのような場合、そのデータを出すべきかどうかということを正直悩みます。IRerの最大の課題はここにあるのではないかと思います。

非常に難しいこのジレンマに向かい合ったときに、皆さんはどうされるか話を伺ってみたいところですが、私は「得られたデータからはここまでのことしか言うことはできません」と言うと同時に、「その一方で、このデータでは見えないことがたくさんある」、つまり、今集めているデータだけでは大学のパフォーマンスを100%評価できているかわからないので、別途違うデータも取らないといけないでしょうね、と申し添えます。なぜかといえば、原因Xに対して結果Y、この結果に対する合意が日本でも、世界でもできていないのですから。したがって、ある変数を使えばいい結果が出るかもしれませんし、また別のある変数を使うと悪い結果が出るかもしれません。しかし、その2つのデータが正解かどうかは誰もわからないわけです。したがって、今、私は広島大学の教学IRのなかでこういったトラアンドエラーに対してどうやって答えを見つけ出していくのかということに関わっています。

講演者

広島大学
高等教育研究開発センター(RIHE)・副センター長
高等教育研究資源ナショナルセンター(RIHE内リエゾンセンター)・センター長
准教授


広島大学大学院教育学研究科博士課程後期単位取得退学。
広島大学大学教育研究センター助手等を経て現職。
専門は高等教育論、教育社会学(特に計量分析)。
日本教育社会学会理事、日本高等教育学会理事。
編著に『大学と国家 制度と政策』(リーディングス日本の高等教育:玉川大学出版会)

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※講演日:2021年2月19日(金)

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